イベント報告
誰もが楽しめる山ラン大会を!
(青梅高水山トレイルラン誕生秘話)
■大都会東京の大自然
スタート直後の風景、満開の桜

青梅丘陵ハイキングコースは、1990年にトライスロンを始めて、 その後3年ほど後からランニングのトレーニングによく利用するようになっていた。 それまでは山道を走るということはしなかった。

しかし、一旦その魅力を知ってしまうと山道は楽しい。四季折々の木々の息吹や動物の息遣いを感じる。 時には、シカや天然記念物のカモシカ、それにリスなどに遭遇するときもある。 運がよければ、珍しい鳥コジュケイ(ニワトリを一回り小さくしたような、 ウズラほどの大きさで、飛べない鳥。10匹ほどの群れで生息している。) の野生の群れに出くわすこともある。

今と違って、当時はこの青梅丘陵ハイキングコースを走っている人はほとんどなく、歩いている人も非常に少なかった。 こんな濃い自然が残った道が東京都心の近くにあることをほとんどの人は知らないだろう。 多くの人に知ってもらいたいと漠然と感じていた。

■懐かしい土の感触
高水山山道を天狗のように駆け下りる選手

山道だから足裏に土の感触を感じ、柔らかく、脚にも優しい。 森林浴効果も満点、且つ、四季折々の風景が楽しめるときている。 春は新緑、夏は木陰が涼しい。秋は紅葉が素晴らしく、落ち葉の絨毯道に。 冬は冷たい北風が吹いても木立がそれを遮ってくれ暖かい。 それに、雪が積もると景色は白の世界に一変し、ザクザク踏みしめて歩くのも楽しい。 大雪が降ると必ず散歩に行くことにしている。

路面も変化に富んで、土、小石、岩盤、落ち葉、それに、くねくねと曲がりくねっている。 心臓バクバクの激坂や階段道もある。ジャンプしながら下る坂道もある。着地が決まると気持ちいい。 時には、バランスを崩して転倒することもある。「人も動物」を実感する瞬間だ。忍者になったような気分だ。 子供の頃の遊びの延長だ。舗装路と違って、身体中の至る所の筋肉を使う。

また、そこから見える景色も絶景だ。晴れた日には、新宿副都心の高層ビル群、 米軍横田基地、そこを発着する飛行機、横浜ランドマークタワー、所沢の西武ドーム、 富士山等々も見ることができる。

■甦る野生
絶景ポイント、遠くに山々が見える

それに、ふとしたはずみに、子供の頃に野山を駆け回って遊んだ記憶が甦ってきて、 懐かしさを覚える瞬間がある。大人になって消えてしまったが、 その当時、身に付いていた野生の感性が甦ってくるような気がする。

子供の頃は野山や川が遊び場だった。崖をよじ登ったり、飛び降りたり、 潅木の茂みをかき分けて走ったり、木に上ったり、飛び降りたり、木の上に小屋を作ったり、 小鳥を捕まえたり、木の実を取って食べたり、魚を捕まえたり等々、 まるで、野猿のようだった。怪我もよくしたが、そこから身を護る術も学んだ。

■直感
ハイキングコースの入口付近の様子

1999年春、青梅丘陵ハイキングコースをランニングしていた時のことだ。 見晴らしのよい第4休息所辺りに差し掛かった時、この道でマラソン大会をしようという考えが頭の中に浮んだ。 それまでそんなことを考えたこともなかった。

大西のいつもの「直感」である。それは「できる」と出ていた。 昔から何かに付け「直感」に従うことにしている。これは人が持っている不思議な能力で、思考や理屈や時間は要らない。 一瞬にしてイメージが見えてくる。

一旦、やろうと決めると、なぜ、今まで、ここでレースがなかったのか不思議に思えてくる。 こんなよい場所は大勢の人に知ってもらわないと勿体無い。紹介するにはレースが一番手っ取り早い。

■行動開始
山頂でカメラにサインを送る選手

大会開催に向けて、直ちに行動を開始した。 先ず、最初のステップとして、第1回大会は青梅丘陵ハイキングコースの始点である 永山公園から榎峠までの一本道のシンプルなコースを使ってやることにした。

当時、矢倉台から奥はほとんど人が入っていなく、道が雑草で覆われ、消えている部分も多かった。 大会日までには整備が必要だった。

第1回大会で山系ランの情報を収集しようと思った。 本命の高水山折返しは翌年の第2回大会から実施しすることにした。

レースの流れや選手の状態が目で直接把握できる公道マラソンと違って、 山の中を走るレースはランナーの位置や状態をリアルタイムで把握することが困難だからだ。 情報収集は安全対策の基本だ。

森の中を列をなして進む選手の一団

アップダウンの多い榎峠までの正確な距離を測定するために、 マウンテンバイクのサイクルコンピュータを利用した。 スタート地点からゴール地点までマウンテンバイクを転がして距離を測定することにした。 急斜面や階段部分があるので、グリップ力のあるマウンテンバイクは便利だった。

測定距離は9.7kmだったので、10kmとし、公式発表することにした。 開催日は草木が枯れ、道幅が広く感じる秋とし、11月28日(日)に決めた。 現在の4月開催に変更したのは第4回大会以降だ。 そして、試走を繰り返した。五感に感じる感触はよかった。

■松岡さんとの出会い
緩やかなアップダウンの続く道

続いて、青梅市役所の各関係部署、青梅警察署、青梅消防署等々の関係各所で、 許可&届出の手続きをしなくてはならない。

先ず、大会本部に使用する永山公園グランドを管理する青梅市体育課に行き、レースの内容を説明した。 この頃は、未だ、青梅市体育協会に加盟しておらず、KFCトライアスロンクラブと云う1民間クラブの立場だった。

案の定、体育課の対応は協力的ではなかった。厄介なことを始めてくれるなという態度が見え見えだった。 極めつけは、将来、このレースが、青梅マラソンよりも規模が大きくなったら困ると言うものだった。 すなわち、青梅市のシンボルである青梅マラソンに悪影響がでたら困るというものだった。 そんなことはあり得ない。開いた口が塞がらないとはこのことである。器が小さいにもほどがある。 細い山道に1万5千人もの人が走れる道理がない。これで大西の反骨精神に火が付いてしまった。 (但し、今ではこの大会を理解してもらい、たいへん協力してもらっている。 感謝している。初の試みは、何事も最初から理解を得るのは難しいものである。)

その次に青梅市商業観光課を訪ねた。 大勢が集まるスポーツイベントは地元への経済効果が高いので観光課とは無関係ではない。

当時の観光課係長松岡さんは、ぜひ開催して欲しいという意向だった。 そして、青梅市観光協会の後援大会にしてもらい、 関係各所の許可を取るためのアドバイスをいろいろとしてもらった。 松岡さんのアドバイスで許可を取るべき部署が明確になった。

ハイキングコースの使用に関しては公園緑地課の許可が必要ということが分かった。 その足で、市役所内ある公園緑地課に立ち寄った。松岡さんの口添えもあって、 多少の条件付だが、使用許可はすぐに出してもらえた。 この後も松岡さんには事ある毎にいろいろとお世話になっている。

軽快になちゃぎり林道を下る選手

次は青梅警察署だ。基本的には車両の通らないハイキングコースなのだが、 一部に林業用作業車輌が時々入る部分があるので、念のため、交通課に道路使用許可を申請した。 一般道と違って、許可は簡単に下りた。(3年後には道路許可の申請は必要ないと告げられた)

さらに、警備課にも山岳マラソンを開催するという旨の届出を提出した。 不特定多数の人が集まるイベントは、どんな内容のモノでも、 必ず警備課に届出をしておかなければならないからだ。

因みに、この当時は山道を走る大会は珍しく、自然と「山岳マラソン」と呼んでいた。 「トレイルラン」という言葉が使われだしたのは、その後ずっと後のことである。 さらに、青梅消防署にも大会の届出を提出した。 もし、事故や怪我人が出た場合に、救助ヘリや救急車をスムーズに手配してもらうためだ。 山での怪我人搬送は救助ヘリが吊り上げて病院へ搬送するのが最も効果的だ。 このコース脇には救助用のヘリポートもある。これで許可&届出は大体完了した。

■国内初、誰もが楽しめる山ラン(トレラン)大会誕生
毎年参加の南蛮連合の選手

大会名は「第1回青梅丘陵山岳マラソン10k」とした。 6月に入って、参加者の募集を開始した。初心者でも、上級者でも、誰でも参加できる国内初のトレラン大会が誕生したのである。

当時、東京(ハセツネ)と京都(東山)にそれぞれ1本つづ山を走るれ大会があったが、これらは修行の要素が強く、夜を徹して歩くなど相当にタフで、 誰もが気軽に楽しめると云う大会とは言えなかった。

この頃は未だインターネットやメールは一部の人だけのものであって、今日ほど一般的ではなかった。 我々もパソコンは持っていたが、ワープロに毛の生えたような代物でメールやインターネットはできなかった。

募集チラシを作って、他のマラソン大会会場に出向いて配布したり、口コミ等々しか募集方法はなかった。 古典的なやり方である。それでも146名もの参加者があった。上出来である。

■役者は揃った
ロタ島から会場にやってきたジョー・サントス

北マリアナ諸島ロタ島からジェリー・カルボ・ファミリー5名とナネットと ロタKFCリーダーのジョー・サントスがやってきた。 さらに、福生の米軍横田基地で働いているロタ島出身者(チャモロ人)たちも差し入れにビールのケースを担いでやってきた。 サイパンからはスチュアート・スミスもやってきた。これで、役者は揃った。

この晩秋の時季、青梅丘陵の紅葉は見事である。ロタから来た連中は黄色く色付いた紅葉をみて、 寒い寒いと震えながらも、「Beautiful!!」「Great!!」「Wonderful!!」を連発していた。 南の島は年中緑で、紅葉はない。よほど紅葉が珍しかったのだろう。

■1999年11月28日、第1回大会スタート
恒例のウォーミングアップ、エアロビクス

JR青梅駅から大会会場の永山公園までは徒歩5分くらいである。 本格的な山岳ラン大会にしては、アクセスはたいへんよい。

永山公園グランドでエアロビクスによるウォーミングアップの後、 10:00amに参加者たちは一斉に山の中へ消えて行った。レースは永山公園グランドをスタートして、榎峠でゴール。

帰りは最寄りのJR青梅線軍畑駅から青梅駅まで電車に乗って帰るというものだった。 この時、ゴール地点で選手一人ひとりに帰りの切符代として小銭を手渡した。 これが選手たちに受けた。ゴールで現金を手渡されるレースなんて、他にはないからだ。 この話は今でも語り草になっている。今となっては懐かしい思い出である。

このハイキングコースを約150名ものランナーが駆け抜けるのは始めての出来事である。 ハイカーたちは山道を駆けて来るランナーたちに、一瞬何事が起こったのかと驚いた様子だったが、 すぐに道を空けて、暖かい応援を送っていた。 また、青梅市街から観戦に尾根道まで上がって来ている人もいた。ハイカーとランナーの間には何の問題も生じなかった。

大会の2ヶ月前からコース上の数箇所に大会開催を知らせる看板を設置して、 ハイカーたちに告知し、協力をお願いしておいた。 これが功を奏したのかも知れない。

■自然は柔でない
眼下には多摩川と青梅市街が見える

今、各地の山系ラン大会でランナーが走ることで自然破壊に繋がる云々ということで、 ハイカーとの間で揉めることが多いと聞く。 幸いなことに、この大会に限ってはそんなことは全くない。

第1回大会から現在までハイカーとランナーの関係はたいへん良好だ。 ランナーが来ると、ハイカーたちは道を空けて、暖かい声援を送ってくれる。 わざわざレースを観るために、その時間に合わせてコースにやってくる人もいる。

そもそも、人が走るくらいで、自然は破壊されない。自然はそんなに柔でない。

■貴重な経験
矢倉台に上がる激坂、ここは歩く方がよい。

第1回大会の男子優勝は杉浦健夫選手で、タイムは47:03だった。 女子優勝は水上いずみ選手で、タイム1:11:46だった。 予想以上の好タイムに驚いた。あのアップダウンの連続する10kmコースを47分で走りきるとは!!

転倒した選手や怪我人はいなかった。 足場の悪い急坂や危険箇所に安全ロープを設置たのが功を奏したのだろう。 多くの人から次回に向けての貴重な情報をたくさん得ることができた。

因みに、スチュアートは13位(56:50)、 ジョーは37位(1:05:02)、 ナネットは女子15位(1:27:05)だった。

■本命、上級者向け高水山30kmチャレンジに向けて

当初の計画通り翌2000年10月29日(日)の 第2回大会からメインレースである高水山折返しの30km部門を加えた。 コースは榎峠までは昨年と同じで、そこから成木8丁目の白岩地区を通り抜けて、 高水山を目指して上っていくというものであった。 相当にタフなコースができあがった。

■住職清水さんのご好意
お守りを貰って、嬉しそうな選手。後が本堂

高水山にある常福院境内を折返し地点にすれば、 お参りにくる参拝者に迷惑がかかると思い、 裏手の駐車場を折返し地点にしようと考えていた。

しかし、それを住職の清水さんに話すと、「境内を折返し地点に使ってもいいよ。」と。 やはり、駐車場より本堂正面の境内の方が雰囲気も断然いい。 ここまで頑張ってきた選手も喜ぶ。 それならばと、記念に高水山常福院のお守りを一人ひとりの首に掛けて歓迎するという演出をすることにした。

誰が言った訳でもないのに、選手たちの間で、 自然と本堂に一礼してお守りをもらって復路に向かうという暗黙のルールが出来上がった。 人は厳かな本堂を前にすれば、一礼したくなるようにできているのである。

■高水山パワー
お守りを自慢げに

今では、毎年このお守りをもらうことを楽しみに参加してくる人も多い。 このお守りを身に付けて、他の大会に出ると、タイムがグッと良くなると話してくれる人もいる。 今では、この噂を聞いて、遠くから高水山常福院まで、 わざわざお守りを買いに来るランナーもいる。嬉しい限りだ。

それは住職清水さんがお守りの一つひとつに丹精を込めて「念」を入れているからだろう。 これぞ「高水山パワー」だ。 因みに、お守りに付けてある長い紐(首にかけるための)付け作業は住職さんが担当して下さっている。 数が多いので、大変だ。

■歓迎の鉢花
白岩地区のエイド、住民の人がボランティア

次に白岩地区の自治会を訪ねて、 11月29日に大勢のランナーが地区の真ん中を通り抜けて延びている激坂を走ることを伝え、 協力をお願いした。

快く受け入れてもらった。 そして、何と、レース当日にはコース脇に綺麗な鉢花を並べて、 通り抜ける選手たちを歓迎して頂いた。感謝。

■本命レーススタート
雨に煙る高水山常福院の境内、幻想的だ。

レース本番は生憎の雨となった。天候だけはどうすることもできない。 アウト・ドアのスポーツの宿命だ。 それでも、恒例のエアロビクスの後、 シトシト雨の中、9:00amジャストに参加者は一斉に山の奥へ駆け出していった。

晩秋の雨は冷たい。こんな日は走っている選手よりも山の中に立っているスタッフやボランティアの方が寒く、辛い。 どの大会においても、レース前日までは選手の身を第一に考えるが、 当日になると、スタッフやボランティアに辛い思いをさせないように運営サイドの人のことを第一に考えるようにしている。

この年の10km部門は5km地点の折返しにした。 スタート地点とゴール地点を同じ場所にしないとシンドイものがある。

この年もスチュアートやジョーはやってきた。 そして、横田基地からチャモロ・ファミリーもやってきた。 さらに、今もトライアスロン・ワールドカップやオリンピックで活躍中の庭田清美選手の参加もあった。

この時、庭田選手から募集締切日に突然電話がかかってきた。 「庭田ですけど、未だ、大丈夫ですか?」「大丈夫ですけど・・、庭田って、・・あの庭田・・?」 「そうです、あの庭田です。」こんなぼやけた会話をしたことを思い出す。

この年(2000年)からようやくメールができるようになったが、 ホームページは未だ立ち上げていなかった。 募集は前年と同様に古典的な方法で行った。それでも30km部門が約100名、 10km部門が約100名の計200名も集まった。 因みに、ホームページは2002年に立ち上げたが、当時は中身が空っぽだった。

■ハプニング発生
高水山常福院境内に上がる階段を行く選手

レース中に想定外のハプニングが起こった。 左に曲がる所を真っすぐ行ってしまったり、右に曲がるべき所を左に行ってしまったり・・・・。 要所要所には矢印のサインボードを設置したのだが、雨の影響か、気が付かない人が10人ほどいた。

山岳ランナーは我が道を行く人が多く、間違ったと気付いても、お構いなし・・・なのである。 ミスコースを悟った選手は、それならばと、 競技コースではない道を走って、ゴール地点を目指す人もいる・・??。なぜ??。

また、高水山へ上らず、反対側に下ってしまった人たちを 住職さんが車で拾ってコース上まで戻してくれたり・・・。 それでも皆平気で、何事もなかたような顔で、楽しそうに、続々とゴールして来る。 彼らは1分1秒を争うのではなく、山を走るのが好きなのだ。そんな彼らに我々と同じ匂いを感じ取った。

■嬉しい申し出
この石段の上が境内、本堂が見える

レース後、この混乱した様子を見ていた住職さんが翌年からのボランティアを申し出て下さった。

成木7丁目の高水山常福院の檀家の人たちを中心に、 高水山の山道部分の誘導と境内に設置するエイドのマンパワー部分を受け持って頂けることになった。

当時、マンパワーの貧弱な我々KFCにとっては、思いもよらない嬉しい申し出だった。

白岩地区の急坂を登る選手たち

これが2007年8月開催の「第1回東京ヒルクライムNARIKIステージ」で 尽力して頂いた中島さんとの最初の出会いだった。 今では成木7丁目自治会の方々にも大勢手伝ってもらっている。

さらに、レース後に白岩地区にもお礼に行った。 すると、ここでも翌年から白岩自治会でこの地区のコース誘導とエイドのマンパワー部分を手伝うという有難い申し出を受けた。 今ではこの地区の年間行事のひとつとして定着している。有難いことだ。

■路面をフラットにしろ!
黙々と先を急ぐ選手たち

レースが終わり、その記憶が薄れた頃に、参加者のひとりから驚くような意見が寄せられた。 その内容は、「路面をフラットにしろ!」というお叱りの文面だった。 これが示すように、まだまだ山岳マラソンはその主旨が理解されていなかった。

この頃は山道を駆けるレースは一般的ではなく、市民権を得ていなかった。 2003年の第5回大会までは参加者も200〜300名くらいで、 年齢は40〜60台の男性が中心で、若い人や女性は少なかった。 会場を見渡すと、服装も地味でグレーという感じだった。

■ブーム到来の予感
カラフルなウェアの選手たち

しかし、2004年頃から年を追うごとに、 参加者が増え続け、若い人や女性の参加者が急激に増えた。 「トレイルラン」という言葉も使われだしてきた。

スポーツ産業界も山系スポーツに新しい市場を見出したのだろう、 カッコいい機構的なウェアや山系シューズ、それに軽量バックパックなどを次々に発売した。

これらを身に付けたカッコいい選手たちで、 会場が非常にカラフルになってきた。「場」の雰囲気がどこかトライアスロンに似てきた。 会場には活気がみなぎってきた。この年、初めて山系ランのブーム到来を予感した。

今、思うと、この大会がトレイルラン・ブーム到来の火付け役に一役買ったことは間違いない。

■エイドの隠れた役割
高水山常福院境内のエイド風景

エイドステーションに関しては、5km地点毎に、コース上に3箇所設置した。 折り返しコースだから5回エイドに立ち寄ることができる計算である。 その内の2箇所は白岩自治会館と高水山常福院境内である。 これらは車も入るから荷物の搬送には問題はない。

しかし、青梅丘陵ハイキングコース上の1箇所は山の尾根道にあり、 近くまで車で入ることができない。だから、重い水(20リットルのポリタン)やフルーツを担いで、 何度も何度も往復して登らなくてはならない。これがひと苦労なのである。

しかし、選手の心理を思うと、適度な場所にエイドを設置することは必要不可欠と考えている。 水分や食料の補給のためだけでなく、選手に心理的な安心感を与えることができ、 それが結局、安全確保に繋がるのである。 特に、全選手の状態がリアルタイムで確認できない山の中のレースでは大切な情報収集の場と考えている。

■昔道復活作戦
復活した昔道を駆ける選手たち

大会を始めた当時、青梅丘陵ハイキングコースは永山公園から奥へ約5km地点までは道幅も比較的広く、 ハイカーと出会うが、それより奥はほとんど人が通っていなかった。

その為、昔あった山道が崩れたり、草木に覆われて道が消えている部分もあった。 また、白岩地区から高水山林道(なちゃぎり林道)へ続く山道も、その当時は人が歩いた形跡がほとんどなく、 草木に覆われて、満足に通れる道ではなかった。

地元の人から、「昔は人の往来が頻繁でしっかりした道だったが、 最近は全く使われなくなった。」と聞いた。これらの部分をひと昔前の状態に復活させることにした。 さらに、安全対策として急斜面にはロープを取り付けた。KFCお得意の土方作業である。

自然保護も大切だが、しばらく放っておくと、自然が人工物を破壊していく。 何事も程度問題である。今では年間通じて、ハイカーやランナーが通るようになり、 永山公園から高水山までの全コースに亘って山道が昔のように復活した。

■進化するコース
栗平地区の空間、辺り一面に菜の花が満開

コースも徐々に進化して、最近では、よりエキサイティングなコース設定になっている。

第9回大会からは青梅の隠れ里「栗平地区」を通り抜ける山道を15km部のコースに組み込んだ。 ここは甲斐武田氏の末裔が住むと言われている由緒ある里で、周りを深い山に囲まれ、 3〜4軒の民家があるだけである。

このポツンと開けた空間に入り込むと、どこか懐かしい風景が広がって、 古の時代へタイムスリップしたような不思議な感覚に陥る。

常に、参加者に驚きやときめきや感動を与えるコース作りをしたいと心掛けている。 次回の第10回記念大会は30km部を35km部に変更し、 栗平地区を通り抜けるコース設定になる予定だ。さらに、白岩地区から高水山林道へでる山道も一部コースを変更し、 一方通行にして、対面走行をなくす予定だ。今は消えてしまっている昔道を復活させることにしている。 この昔道は尾根道で見晴らしがよく、参加者に喜んでもらえると思う。

昨今の山系ランブームを反映して、次回の参加者は前回の1500名を超えるだろう。 近年、山系ランはたいへんなブームになってきている。この大会を立ち上げた頃とは大違いだ。 週末ともなれば、年間を通して、多くのランナーが走りに来ている。

■最高の収穫

また、この大会を立ち上げたことで、何ものにも代えがたい大きな収穫があった。 それはこの大会を通して、たくさんの頼もしい仲間たちを得たことである。

この大会を立ち上げる段階で地元青梅市民の中から大勢の人がボランティアを申し出てくれた。 皆スポーツ好きの気持ちのある人たちばかりだ。今ではKFCイベントに無くてはならない大切なメンバーとなっている。

■皆の誇り
やっと、常福院到着。頑張りました。地元青梅の武田さん

最近ではこのハイキングコースを歩いていると、 散歩に来ている地元青梅の人が通りすがりのランナーに「ここでマラソンがあるんだよ」と誇らしげに話しかけている場面に出くわす。 やってよかったと思える瞬間だ。

地元の人にとっても、この大会は誇れるモノになっているようだ。 10年経った今、KFCの大会ではなく、地元青梅の大会として根付いてくれたようだ。

スポーツイベントというものは、運営するスタッフ、ボランティアとして手伝う人、 選手として参加する人、それに、地元地域の人たち等々、 そのイベントに携わる人たち皆が誇れるようなイベントにしなくては価値がないと常々考えている。

■「みたけ山山岳マラソン」の立上げ
青梅丘陵ハイキングコースを行く選手

「第2回青梅丘陵山岳マラソン」を開催した翌々月の2000年12月10日に青梅市御岳山で「第1回みたけ山山岳マラソン大会」を開催した。

これは市観光課の松岡さんの依頼で、 御岳山の観光プロモーション・イベントとして高水山大会同様の大会を立ち上げて欲しい と頼まれていたもの。

我々の大会運営を見ていた松岡さんがKFCのノウハウと御岳山の人たちのマンパワーとで 青梅の新しい観光資源のひとつとして山系マラソン大会を立ち上げようと考えられたのである。

御岳山の宿坊の人たちと御岳登山鉄道(ケーブルカー)の人たちとを 我々KFCが手伝うという形で立ち上げた。この大会も今年で、はや、8回目の大会を迎える。

2007/9/28 KFC記